性善説で見ることができない社会の崩壊
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作成日時 : 2017/04/17 07:19
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性善説で見ることができない社会の崩壊が起こっている。道路交通でもそうだし、児童に対する性犯罪でもそう。これは一体何の欠如だろうか?教育の欠如だろうか、それとも社会の構築による環境の欠如だろうか。人を法で縛るのは必要な範囲で行われども、それ以上に重要なのが倫理意識ではないだろうか?
小学校では道徳の教科化が行われる中でそれは必要なことだったのかという問いにその答えはその子供たちが大きくなってからという年限を待つしかないのは心苦しい。教科化とはカリキュラムを作り、点数をつけたテストでもするとでもいうのだろうか。そうだとしたら、そんなもの倫理意識とは無縁な気がする。
しかし、最近の授業の傾向として知識集約型から論理思考型へと移行していると聞く。それならば少し安心かと胸をなでおろすとともに教育とは一体何であろうか?教育勅語に議論が最近は波及している。今の時代に合わない部分と今でも合う部分がある。これが温故知新というもので、良いものは取り入れ、悪いものは新しきもので更新する。それが必要か。
人口減による救済策である外国人の流入もそういうことかと考えてみる。一気に流入すると過ちをおかしそうではあるが、少しずつ流入していき、少しずる混じり合わせるがごときに取り入れていく。そういうものか。
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